宮崎 昭二(みやざき しょうじ、1943年4月16日 - )は佐賀県鹿島市出身の元プロ野球選手(投手)。

来歴・人物

佐賀県立鹿島高等学校では、2年生時の1960年、投手として夏の甲子園に出場。熊本商、平安高、明石高を降し勝ち進む。準決勝ではこの大会に優勝した法政二高と対戦するが、同じ2年生エースの柴田勲らに抑えられ完封負け。しかし佐賀県勢初のベスト4入りの原動力となった。同年の熊本国体にも出場するが、1回戦で秋田商の今川敬三(早大-秋田商監督)に完封を喫する。翌1961年夏も西九州大会準決勝に進出するが、海星高のエース池辺巌を崩せず惜敗、夏の選手権への連続出場はかなわなかった。

1962年に東映フライヤーズへ入団。1年目から一軍に上がり、9月23日には阪急を相手に4安打完封勝利。チームのリーグ初優勝に力を添えた。その後は主に中継ぎとして起用されるが、1967年には12勝7敗、防御率2.10と活躍。足立光宏に次ぐパ・リーグ防御率第2位を記録した。以後も年間40イニング以上を6シーズン投げ、1969年には防御率2.51(規定回数未満)を残すなど、安定した成績を上げる。1975年には阪神タイガースへ移籍。しかし3試合の登板のみで、その年のオフに引退した。球種はスライダー、カーブ、シュートなど。引退後は鹿島市内のデパートに勤務した。

詳細情報

年度別投手成績

  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

背番号

  • 49(1962年 - 1964年)
  • 20(1965年 - 1974年)
  • 27(1975年)

関連項目

  • 佐賀県出身の人物一覧
  • 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
  • 阪神タイガースの選手一覧

青春図鑑【01】 鹿児島高等学校

サッカー部 佐賀県立鹿島高等学校

【高校】「第2回鹿児島・宮崎県選抜チーム高等学校野球交流試合」結果

63歳の高校新入生(鹿児島市)(1988) あの日のふるさと

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